メッセージ
カラファテが目指すもの

カラファテの創業は、1989年10月でした。
開店以来、32年間にわたって経営を担ってきた北田啓郎さんが、2022年の1月末、二人の仲間と共に尾瀬の山でスキー山行中に倒れ、急逝いたしました。
北田さんは大学卒業後、銀座の好日山荘に入社して以来、50年間、登山用具・スキー用具の販売や経営に携わってきましたが、その一方でテレマークスキーの名手として、黎明期から、その技術の向上と普及に情熱を捧げてきました。特に、数年前まで続いた「てれまくり」の主催者としての10年間の活躍は、テレマークスキー愛好者すべてがご存じのことと思います。
また、人間としての北田さんの知性やエレガンスは、群を抜いておりました。

例年通った立山を滑走する北田氏。テレマークスキーを愛し、その普及に終生努めた
撮影:川崎 博


さて、北田さんのカラファテ、カラファテの北田さんが、突然カラファテを残してグッドバイしたわけですから、喪失感は予想を超えて大きく、今後のカラファテはどの方向に進むべきか、大いに迷うところであります。
「山道で迷ったときは、元の場所に戻りなさい」という諫言の通り、もう一度創業時のふりだし点、40年前に遡って考えてみることにしました。


1982年、登攀具メーカー「シュイナード・イクイップメント」の日本の代理店になってから、欧米の多くのクライミングエリアの専門店を訪問する機会にも恵まれた。その中で、日本には多くの登山用具店やアウトドアショップはあるが、不思議にも“クライミング専門店”がないことに気付く。
当時の日米・日欧のクライマーの意識の差、クライミング誌やクライミング専門店の欠如など、すべて日本のクライミング文化の貧困を象徴している感じがして、日本クライミング界の不甲斐なさを自覚せざるを得なかった。
せめて自力でオープン可能な、小さなクライミング専門店をまず作ろう、と考え始めたのは1986年の頃だったか。

1988年、シュイナード家の夕食に招かれた時、イヴォンから「東京に小さなパタゴニアの直営ショップを作ろうと思っている。場所はどの辺がいいか考えてみてくれないか」との相談があった。
「実は私も東京に小さなクライミングショップを開く計画がある。来年完成のビルに入居予定だが、そこならば持主と交渉可能かもしれない」と答えると、「すぐ担当者を派遣しよう」と話は進んだ。
1階がパタゴニア直営店、地下がクライミング専門店の構成となる。
この構成から、店名は、高木正孝の「パタゴニア探検記」の一節「カラファテの実を食べた者は、必ずパタゴニアの地に戻る」という現地の伝説を思い出し、カラファテと命名する。

坂下(34歳)とイヴォン・シュイナード(42歳)。1981年夏、グランドティトン国立公園にて
撮影:Jim Sandor(イヴォンの友人)


40年後の現在、クライミングは大いに発展し、オリンピック種目にもなった。クライマーの数も増えた。
今後も更に発展し、コンペ、ジム、ボルダー、ワンピッチのスポーツクライミング、ビッグウォール、アルパインクライミングなどのジャンル別の分離や差別化も、より一層進んでいくのかもしれないが、カラファテは、クライミングのすべてを包摂する店でありたい。
すべてのクライマーが集まり、話し合い、議論する場所でありたい。
そしてそこに集まる顧客には、クライミングが持つ豊饒な魅力のすべてを味わってほしい。

現代のほとんどのスポーツは、フィールドやコートという枠の中で、決められたルールに従い、コーチや審判の判断に縛られながらプレーしなければならない。
不思議なことだが、そして奇跡的なことだが、コンペを除き、クライミングのフィールドは無限だ。ああしなさい、こうしなさいとうるさく注意する指導者もいないし、裁く審判もいない。
これほど自由で、冒険的で、創造的で、想像力を求められるスポーツは少ない。現代のクライミングが持つ人工的な枠を破壊し、越境し、脱獄し、辺境へ、遠い彼方へむかおうではないか。
地球上の最も美しい場所で、最も美しい自然の造形物を相手に演じるのが、先人達が、そして多くの英雄たちが、100年以上かけて築いたクライミングという文化ではなかったか。

今後のカラファテは、すべてのクライマーの良き伴奏者、伴走者でありたいと思う。

クライミング専門店・カラファテ
創業者 坂下直枝

2022年9月15日